はじめに
2026年3月3日、ニデック株式会社は第三者委員会の調査報告書を公表しました。約200名の専門家が半年以上をかけてまとめたこの報告書は、同社グループ内の多拠点にわたる会計不正を明らかにし、純資産への影響額は約1,397億円、さらに車載事業を中心に最大2,500億円規模の減損損失が発生する可能性を示唆しています。経営陣4名が辞任し、創業者の永守重信汏も経営から完全に退くという、日本の製造業史に残る重大な事案となりました。
多くの論評がこの問題をガバナンスやコンプライアンスの観点から論じています。もちろん、それは重要な視点です。しかし本稿では、それだけでは見落としてしまう、もっと根本的な問いに向き合いたいと思います。これは管理職研修やコンプライアンス研修の枠を超えた、組織のあり方そのものに関わる問題です。
なぜ、優秀な人材が集まる一流企業で、これほど広範な不正が起きたのか。なぜ、誰も声を上げられなかったのか。そしてなぜ、制度があったにもかかわらず、不正を止められなかったのか。
私たちは、その答えの一端が、組織で働く一人ひとりの「自己基盤力」の崩壊にあると考えています。
ニデックで何が起きたのか
報告書が明らかにした不正の内容は多岐にわたります。棚卸資産の評価損の未計上、固定資産の減損回避のための非現実的な売上計画の使用、人件費の固定資産への不正計上、子会社の引当金の不正な戻し入れなど、グループ全体に根深く広がっていました。注目すべきは、これが一部の「悪意ある個人」の犯行ではないということです。複数の拠点で、複数の手法によって、組織的に行われていました。
そして報告書は、これらの不正の根本原因を、創業者・永守重信氏を起点とする「業績目標達成に向けた強過ぎるプレッシャー」と断じました。非現実的な目標が設定され、達成できなければ人格そのものを否定される。経営会議では日常的に厳しい叱責が飛び交い、解雇を示唆する強い言葉が繰り返されていた。そして、そのような雰囲気が、組織全体に蔓廻していたのです。
「心が壊れていく」という叫び
報告書の中で最も衷撃的だったのは、経営幹部たちの悲痛の声です。
「このままでは心がどんどん壊れていき、家庭でも笑えることができなくなりそうです」
これは、あるCFOが辞職の際に送ったメールの一節です。別のグループ会社のCFOは、利益に対するプレッシャーが強まり、夜眠れない日が続いて心療内科に通い始めたことを吐露しています。
これは「メンタルヘルスの問題」として矮小化すべき話ではありません。組織の中で、人間としての尊厳や自己価値感が構造的に破壊されていた、ということです。高い能力を持ち、本来であれば企業の成長を牽引するはずの人材が、「人」として扱われない環境に置かれていた。そこに、この問題の本質があります。
「自己基盤力」の視点から読み解く
私たち2E Consultingは、管理職研修をはじめとする人材育成の土台として「自己基盤力」という概念を提唱しています。自己基盤力とは、自己肯定感を土台に、自己効力感を持って未来に向かって行動を起こす力のことです。
どれほど立派な建物でも、基礎が弱ければ、やがて痛み、崩れてしまいます。人の成長も同じです。知識やスキルは「上物(うわもの)」であり、それを支える目に見えない基礎がなければ、行動は長続きしません。私たちはこの「成長を規定する土台」を自己基盤力と呼び、人材育成の最も重要な基礎に据えています。
ニデックの事案を、この自己基盤力のフレームワークから分析してみましょう。
自己肯定感の破壊 ― 「自分はここにいていい」と思えない組織
自己肯定感とは、成果や評価に関係なく、今の自分をそのまま認められている感覚です。「自分には存在価値がある」「何があっても大丈夫だ」と思える、内側の絶対的な安定のことです。これは「自信」とは異なります。自信は成功体験に基づくものですが、自己肯定感はもっと根源的なもので、たとえ失敗しても自分の価値は揺るがないと感じられる力です。
ニデックで起きていたことは、この自己肯定感の組織的な破壊でした。業績未達を人格の否定に直結させるマネジメントのもとでは、人は「自分の価値は数字によってのみ決まる」と感じるようになります。数字が出なければ存在を否定される。そのような環境に置かれた人間は、失敗を過度に恐れ、「やらない理由」を探すか、あるいは数字を取り繕うことでしか自分を守れなくなります。
不正会計とは、追い詰められた人間が「自分の存在価値を守るために」選んだ、歪んだ自己防衛だったのではないでしょうか。彼らは決して「悪人」だったわけではありません。自己肯定感を持てない状態で、自分を守る術がそれしかなかったのです。
自己効力感の喪失 ― 「自分の力で変えられる」と信じられない
自己効力感とは、「自分は行動できる」「やり切る力がある」と信じられる感覚です。困難に直面しても、自分の力で乗り越えられるという確信。新しい挑戦に踏み出すための、根拠のある自信のことです。
非現実的な目標と過度なプレッシャーは、この自己効力感をも奪います。達成不可能だとわかっている目標を突きつけられ続けると、人は「正当な努力では目標に届かない」という学習性無力感に陥ります。心理学者マーティン・セリグマンが提唱したこの概念は、「何をやっても無駄だ」という無力感が学習によって定着してしまう現象を指します。
その結果、正面から課題に向き合い、創意工夫で乗り越えようとするエネルギーが枯渇し、帳簿上の操作という安易な逃げ道に手を伸ばしてしまう。自己効力感が健全に保たれていれば、「この目標は非現実的である」と声を上げることもできたはずです。「別のアプローチを試そう」と建設的な提案ができたはずです。しかし、自己基盤力が崩壊した組織では、その声は決して生まれません。
WillとCanなきMustは「ノルマ」に成り下がる
人が組織で力を発揮するには、Must(やるべきこと)だけでなく、Will(自らやりたいという意志)とCan(自分の強みや持ち味を発揮できる感覚)の3つが揃っている必要があります。WillとCanが伴ってこそ、Mustは「組織への主体的な貢献」になります。自分の意思で目標に向かい、自分ならではの強みを活かして取り組む。そのとき初めて、人は内側からエネルギーを発揮します。
ニデックでは、営業利益の必達が絶対的なMustとして掲げられていました。しかし、社員が「自分はこうしたい」「この事業をこう成長させたい」というWillを持つ余地はなく、「自分らしい強みを活かしている」というCanの感覚も持てなかった。目標は上から降りてくるものであり、自ら設定するものではない。達成の方法に自分の裁量はなく、ただ数字を出すことだけが求められる。
その結果、Mustは「主体的な貢献」ではなく「やらされ感のノルマ」に変質していました。ノルマ化した目標のもとでは、人は創意工夫ではなく帳尻合わせに走ります。「どうすれば本質的に業績を改善できるか」ではなく、「どうすれば数字の辻褄を合わせられるか」に知恵を絞る。これが不正の温床となったのです。
歪んだコンフォートゾーン ― 恐怖が支配する「安全地帯」
人間には「コンフォートゾーン」、すなわち心理的に安全だと感じる領域にとどまろうとする本能があります。心理学で「心理的ホメオスタシス」と呼ばれるこの作用によって、人は変化を避け、現状を維持しようとします。これ自体は、生存のために備わった自然な機能です。
健全な組織では、このコンフォートゾーンを「達成したい未来の自分」に向けて再設定することで、成長や挑戦が生まれます。「変わっても大丈夫だ」と心のどこかで確信できたとき、人は初めてコンフォートゾーンの外に踏み出すことができます。
しかしニデックでは、コンフォートゾーンが「恐怖からの回避」に設定されてしまっていました。社員にとっての「安全な場所」は、成長した未来ではなく、「上司に叱責されない状態」でした。そのために数字を合わせることが最優先となり、本来の事業価値の向上や顧客への貢献といった本質的な目的は見失われていきました。恐怖に基づくコンフォートゾーンは、組織を萎縮させ、不正を常態化させるのです。
マネジメントとは「長期的な成果の最大化」である
ドラッカーは、マネジメントの目的を「長期的な成果の最大化」と定義しました。「長期的」とはどれくらいか、明確な答えはありません。しかし、上場企業の経営者であれば、少なくとも10年先を見据えた経営判断が求められるはずです。四半期ごとの数字に一喜一憂するのではなく、事業の持続的な成長と社会への価値提供を見据えた意思決定こそが、経営者の本来の役割です。
報告書によれば、ニデックの岸田社長は構造改革の必要性を永守氏に進言していました。事業ポートフォリオの見直しや、中長期的な収益基盤の再構築という、まさに「長期的な成果の最大化」に向けた提言です。しかし永守氏はこれを退け、目先の営業利益目標の必達を優先しました。
短期の数字を追い続けた結果、長期的には企業価値を大きに毀損するという皮肉な結末を招きました。1,397億円の純資産への影響、最大2,500億円規模の減損損失の可能性、無配転落、そして何より、長年かけて篋き上げてきた信頼とブランドの失墜。これらは、短期志向のマネジメントがもたらした「長期的な損失」にほかなりません。
マネジメントが短期の数字に偏るとき、その圧力は必ず組織の末端にまで伝播します。そして、自己基盤力が脆弱な組織では、その圧力は不正という形で噴出するのです。
制度はなぜ形骸化するのか
ニデックには「特命監査」という内部統制上の制度が存在していました。不正を監視し、経営トップに報告する仕組みです。実際に永守氏にも報告がなされていたとされています。しかし、その報告は外部に公表されることなく、内部で処理され、時に隠蔽されていました。
第三者委員会は再発防止策として、社外取締役の機能強化や曣査体制の整備を提言しました。これらは当然必要な施策です。しかし、私たちはそれだけでは不十分だと考えます。特命監査の事例が端的に示しているように、問題は制度の有無ではなく、制度を運用する経営陣のリーダーシップのあり方にあるからです。
どれほど精緻な内部統制の仕組みを構築しても、そこで働く人々の自己基盤力が損なわれていれば、ルールは形骸化します。監査等委員会も内部監査部門も存在していました。しかし、組織全体を覆う恐怖の文化の中で、それらは十分に機能しませんでした。不正を報告すべき立場の人間が、報告することで自分の立場が脅かされると感じている状態で、制度が機能するはずがありません。
真の再発防止とは、制度や仕組みの改革に加えて、組織の中で一人ひとりが健全な自己基盤力を持てる環境を整えることです。管理職研修やコンプライアンス研修を何度繰り返しても、自己基盤力が脆弱な組織では、知識は行動に結びつきません。これは人材育成全般にも言えることですが、スキルや知識は「土台」があってはじめて機能するのです。
経営者やリーダーは、自らに以下のような問いを投げかける必要があります。
- 経営者は、業績目標と同じ熱量で、社員の心理的安全性を守っているか。
- 社員が「それは無理です」「別の方法を考えましょう」と言える風土があるか。
- リーダー自身が、自分の弱さや不確実性を認められる自己基盤力を持っているか。
- 評価制度が、数字だけでなく、誠実な行動や正直な報告を評価できる設計になっているか。
- 内部統制の仕組みが、恐怖ではなく信頼に基づいて運用されているか。
おわりに ― 組織の土台を問い直す
ニデックの事案は、一企業の不祥事にとどまりません。強烈なカリスマ型リーダーシップのもとで急成長を遂げた企業が、その過程で何を犠牲にしてきたのかを、私たちに突きつけています。
どれほど優れた戦略やスキルも、それを支える「人としての土台」がなければ機能しません。建物と同じです。基礎が脆ければ、上物がいかに立派でも、やがて痛み、崩れてしまいます。ニデックの事例は、まさにその崩壊が現実に起きた瞬間を、私たちに見せてくれました。
経営者やリーダーの皆さんに問いかけたいのは、「あなたの組織では、社員一人ひとりの自己基盤力が守られていますか?」ということです。社員が自己肯定感を持ち、自己効力感を発揮して、自らの意思で一歩を踏み出せる環境になっていますか。MustだけでなくWillとCanが共存し、社員が主体的に貢献できる組織になっていますか。
自己基盤力が整った組織では、人は上からの指示や恐怖ではなく、内側から湧き出るエネルギーで学び、行動し、成長します。現状に安住せず、失敗を過度に恐れず、自分の意思で挑戦に踏み出せる。そのような人材が集う組織にこそ、本当の意味での健全なガバナンスが根づきます。だからこそ、管理職研修においても、スキルやフレームワークの習得に先立って、まずこの自己基盤力を整えることが不可欠なのです。
ニデックの事例は痛ましいものですが、同時に、すべての企業にとっての教訓でもあります。組織の持続的な成長と健全性は、制度設計だけでなく、そこで働く人々の「内側の土台」によって支えられている。自己基盤力の重要性を、改めて深く認識する契機としたいと思います。
※ 本稿におけるニデックの不正会計に関する記述は、2026年3月3日に公表された第三者委員会調査報告書および各種報道に基づいています。
無料診断
あなたのマネジメント、「土台」から点検しませんか?
「2E式 管理職マネジメント診断」は、管理職としてのマネジメント観、自己基盤力、部下との関わり方を可視化する診断ツールです。正解・不正解はありません。いまの自分がどんな前提で考え、どんな関わり方を選びやすいかを、立ち止まって見つめ直すきっかけにしてください。
無料で診断する
コメント