人は、善でも悪でもなく、ただ「弱い」。この一見ささやかな前提こそが、統制でも放任でもない“第三の道”――内発型マネジメントの土台になります。管理職研修ではあまり語られないこの視点を、誰もが知るあの仕組みを入り口に考えてみましょう。
01罪を軽くする代わりに、何を差し出すのか
映画やニュースで、「司法取引」という言葉を耳にしたことがあるでしょう。罪を犯した人物が、捜査に協力する代わりに、自らの刑を軽くしてもらう――あの仕組みです。
日本でも2018年に、組織的な犯罪を念頭に置いた司法取引(協議・合意制度)が導入されました。狙いは明快です。目の前の一人を厳罰に処すことよりも、その人に自白・協力させることで、背後にある構造――組織ぐるみの不正や、事件を生んだ仕組み――を明らかにすることに、重きを置く。だからこそ、構造の解明と引き換えに、個人の罪は軽くされるのです。
ここには、一つの割り切りがあります。「目の前の個人を罰して溜飲を下げる」ことよりも、「同じ過ちが繰り返される構造そのものを断つ」ことのほうが、社会全体にとって価値が大きい、という判断です。
実はこの考え方の根っこには、私たちがマネジメントの土台に置いている、ある人間観が流れています。それが、性弱説です。
02性善説でも、性悪説でもない
性弱説とは、文字どおり「人は弱い」という前提に立つ考え方です。
性善説でも、性悪説でもありません。人は、善でも悪でもなく、ただ弱い。易きに流れ、楽なほうへ、慎れたほうへと、自然に引き寄せられてしまう。誰もが持つ、この弱さを直視するところから始めよう、という立場です。
そして、これは精神論ではありません。突然ですが、あなたは日々の行動のうち、どれくらいを「自分で意識して」行っていると思いますか。
研修でこの質問を投げかけると、「8割くらい」「いや、ぼーっとしている時間も多いから5割」といった答えが返ってきます。平均すると、おおよそ50%前後。ところが脳科学の世界では、人間が意識的に行動している割合は、全体のわずか3〜5%に過ぎないと言われています。残りの95%以上は、無意識の“反応”です。
朝起きて、気づいたら歯を磨いている。今日は別の路線のはずが、無意識にいつもの駅へ向かってしまう。反応はとても楽です。頭を使わず、エネルギーも消耗しない。だからこそ人は放っておくと、ほとんどの時間を「反応」で生きるようになります。
きれいごとに聞こえるかもしれませんが、自分自身を振り返れば、思い当たることばかりではないでしょうか。
03仕組みを憎んで、人を憎まず
この人間観は、他人の「失敗」や「過ち」をどう見るか、という視点を大きく変えます。先ほどの司法取引が体現していた発想を、今度は職場に当てはめてみましょう。
たとえば、部下へのパワハラで懲戒処分を受けた、ある上司がいたとします。多くの場合、私たちは「あの人の人間性に問題があった」と、原因を個人の資質に求めます。処分を下し、ときに異動させ、一件落着とする。
しかし、性弱説の立場から、少し踏みとどまって考えてみてください。その上司は、もともとそういう人だったのでしょうか。
ひょっとしたら――そこには、過度のプレッシャーという構造があったのかもしれません。上からとめどなく降ってくる仕事、達成不可能な目標、誰にも相談できない孤立。人は弱い。楽なほうへ流れるのと同じように、追い詰められれば、誰しも余裕を失い、普段なら選ばない言動に手を伸ばしてしまう。
もしそうだとしたら、本当に向き合うべきは何でしょうか。
その人を罰し、異動させても、構造はそのまま残ります。そして後任もまた、同じ構造の中に置かれる。やがて第二、第三の「問題のある上司」が生まれかねません。個人を入れ替えても、仕組みが変わらなければ、悲劇は繰り返されるのです。
司法取引が、個人を厳罰に処すより構造の解明を選んだのと、同じ発想です。誤解のないように言えば、ハラスメントそのものを擁護するわけではありません。許されない言動には、相応の対応が必要です。しかし、原因を個人の資質だけに押し込めて「終わったこと」にしてしまえば、最も大切な問い――「どんな構造が、人をそこへ追い込んだのか」――が、永遠に手つかずのまま残ってしまいます。
人を弱い存在として直視するとは、弱さを甘やかすことではありません。弱い人間が、それでも力を発揮できる構造を、本気で設計しようとすることなのです。
そして同じ人間観は、職場で静かに進む、もう一つの現象の正体も照らし出します。
04なぜ「放任」では、人は育たないのか
かつての「きつい職場」を支えていたのは、統制型のマネジメントでした。高い目標を課し、達成すれば報酬で報い、できなければ厳しく叱る。アメとムチで、人を外から「動かす」やり方です。
しかし働き方改革を経て、この統制型は社会的に否定されました。強い叱責はハラスメントとなり、長時間の負荷も許されなくなった。人を外から「動かす」手段が、次々と使えなくなったのです。
問題は、その先です。統制に代わる新しいやり方が確立されないまま、多くの職場が、統制もできず、導くこともできず、結果として放任に陥っています。
「最近の若手には言っても仕方ない」と関わること自体を諸める。当たり障りのない仕事しか任せない。本人のためになる指摘を飲み込んでしまう――。決して怠けているわけではありません。むしろ真面目な人ほど、「動かす」手段を失ったまま、立ち尽くしているのです。
ではなぜ、放任ではダメなのか。答えは、性弱説にあります。
働きやすくなったはずの職場で、若手が「成長できる気がしない」と去っていく。その本当の原因は、働きやすさそのものではなく、この放任――「マネジメントの不在」にあります。
05統制でも、放任でもない「第三の道」
ここで大切なのは、「昔のきつい職場に戻れ」という話ではない、ということです。働きやすさは、私たちの社会が大きな代償を払って手に入れた、後戻りさせてはならない前進です。
必要なのは、外からの圧力(統制)でもなく、圧力の不在(放任)でもない、第三の道です。一人ひとりが内側から動き出したくなるような、場と関係と問いを、意図して設計すること。私たちはこれを「デザイン」と呼んでいます。
- 一人ひとりの「ありたい姿」を、対話を通じて引き出す
- そのありたい姿と、組織の目的とを重ね合わせる
- 安心して挑戦できる場と、成長につながる適切な負荷を設計する
これらは、アメとムチで人を動かすことよりも、はるかに高度な技術です。
つまり、性弱説は内発型マネジメントを否定するどころか、その必要性を根拠づける土台なのです。人が強く、放っておいても自走するなら、デザインは要らない。人が弱いからこそ、「動き出しのデザイン」という高度な技術が要る。
司法取引が個人ではなく構造に目を向けたように、マネジメントもまた、人を責める前に、仕組みを設計する。内発型マネジメントは、人間の弱さから目をそらした理想論ではありません。弱さを直視したうえで、それでもなお人が動き出す道を探る、彻底して現実的な技術なのです。管理職研修で本当に問われるべきは、個人の精神論ではなく、この「仕組みで人を動かす」設計力なのかもしれません。
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