寝耳に水の、退職届
「お話があります」。そう切り出した若手のエースが差し出したのは、退職届だった。中村課長(仮名)は、頭が真っ白になった。つい先月の面談では「順調です」と言っていた。仕事も任せていた。期待もしていた。なのに、なぜ――。
慌てて引き留めようとするが、本人の意思は固い。条件を見直すと言っても、もう遅い。中村課長は思う。「もっと早く、何か言ってくれれば」。
けれど、本当にサインはなかったのでしょうか。――いいえ。サインは、おそらくずっと前から出ていました。ただ、それが見えていなかっただけです。
このシリーズでは前回、心理的安全性を扱い、「順調すぎる報告は、あきらめの沈黙かもしれない」とお伝えしました。今回は、その沈黙の行き着く先――離職を、管理職の視点から考えます。
「辞めます」と言われた時点で、勝負はついている
まず、残酷な事実を一つ。部下が「辞めます」と口にしたとき、その決意はすでに固まっているということです。
退職を切り出すのは、本人にとっても大きなエネルギーを要する行為です。何度も考え、迷い、それでも腹をくくった末の「最終通告」。そこから条件を提示して引き留めようとしても、多くの場合、もう翻りません。むしろ「辞めると言わなければ、この条件は出なかったのか」という不信を残すだけです。
つまり、辞表は問題の始まりではなく、長いプロセスの終着点です。本当に手を打つべきだったのは、その何ヶ月も前。離職対策とは、辞表が出てからの引き留め交渉ではなく、辞表が出る前に、サインを拾う日常の営みなのです。
なお、念のため申し添えれば、離職の要因には報酬や制度、キャリアの天井など、管理職一人では動かせないものもあります。ここで扱うのは、そうした制度論ではなく、現場の管理職が日々の関わりの中で打てる手に絞った話です。
離職は「ある日突然」ではなく、諦めの積み重ね
人は、ある日突然辞めるのではありません。多くの場合、次のようなプロセスをたどります。
最初は、期待を持って入ってくる。やがて、小さな失望が積み重なる。「提案しても通らない」「言っても変わらない」「見てもらえていない」。それでも最初は、声を上げます。けれど、その声が無視された、あるいは否定されたと感じたとき、人は学習します――「言っても無駄だ」と。
ここから先が危険です。声を上げるのをやめ、静かに諦める。表面上は穏やかに、淡々と仕事をこなす。いわゆる「静かな退職(quiet quitting)」の状態です。そして水面下で、転職活動が始まる。辞表は、その最後に出てくる。
重要なのは、最も危険なサインが「声を上げること」ではなく「声を上げなくなること」だという点です。不満を言ってくる部下は、まだ期待を捨てていません。本当に危ういのは、何も言わなくなった部下なのです。
見えにくくなることこそが、サインである
では、具体的にどんな兆候に注意すべきか。多くは「減る」という形で現れます。
やっかいなのは、これらが「問題行動」ではないことです。むしろ「手のかからない、落ち着いた部下」に見える。だから見逃す。「最近おとなしくなったな」と感じたら、それは成熟ではなく、諦めのサインかもしれないと疑う必要があります。
なぜ、管理職はサインを見逃すのか
理由は三つあります。
サインを拾う管理職の、日常の手立て
特別な施策ではなく、日常の関わりに落とします。
第一に、1on1で「業務以外」を聞く
進捗ではなく、「最近どう?」「何にやりがいを感じている?」「これからどうなりたい?」。私たちが重視するWill(ありたい姿)に触れる対話こそ、サインを拾う最良の機会です。仕事の話しかしない1on1は、レーダーを切って飛んでいるようなものです。
第二に、「変化」に気づける関係をつくる
発言が減った、表情が硬い――こうした微細な変化に気づけるのは、普段の関係の質があってこそ。前回の心理的安全性の話と地続きです。何でも言える場があれば、不満は諦めに変わる前に表に出ます。
第三に、辞める前に「在職の理由」を聞く
退職面談(exit interview)で本音は聞けません。辞めると決めた人は、もう本当の理由を語らない。だから、辞めていない今こそ聞くのです。「何があれば、ここで働き続けたいと思える?」――いわゆるステイ・インタビュー(stay interview)の発想です。問題が手遅れになる前に、声を引き出す。
そしてどの手立ても、根底にあるのは同じです。成果は関係の質から生まれる。部下が「見てもらえている」「ここでなら成長できる」と感じられること。それは報酬では代えがたい、管理職にしか提供できない価値です。
おわりに――その「順調です」は、本物ですか
離職は、ある日突然訪れる事故ではありません。拾われなかったサインの、積み重ねの果てです。そして最も危険なサインは、問題行動ではなく、静けさの中にあります。
辞表を見て「もっと早く言ってくれれば」と思う前に、問うべきは自分自身です。言える場を、私はつくっていただろうか。聞こうとしていただろうか。
あなたのチームの「順調です」は、本物の順調でしょうか。
それとも、もう何も期待していない部下の、静かなサインでしょうか。
その違いに気づけるかどうかに、チームの未来がかかっています。
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