少し前、大学剣道部の先輩と、二十三年ぶりに再会する機会がありました。
近況を語り合ううちに、先輩がふと、懐かしそうに言いました。
「山本、覚えてるよ。うちの会社の後輩のO君と一緒に、学生訪問してくれたよね」
温かい言葉でした。二十三年も前のことを、覚えていてくれた。ただ、その言葉を聞いた瞬間、私の中で小さな違和感が生まれました。
私の記憶では、順序が逆なのです。私は大学を出たあと大学院に進みました。O君はその間に、先輩と同じ会社に入社していました。そして社会人になっていたO君が、剣道部のつながりで、先輩を私に引き合わせてくれた。これが私の覚えている経緯です。つまり「学生時代に、O君と一緒に先輩をOB訪問した」という出来事は、そもそも存在しないはずなのです。
念のために言えば、先輩は嘘をついているのではありません。話を盛っているのでもない。あの口ぶりには、悪意もサービス精神もなく、ただ懐かしい記憶を懐かしいままに語っている確かさがありました。「よく覚えてるよ」と。
では、あの「事実」は、どこから来たのでしょうか。
この小さな出来事を入り口に、今日は評価者にとって少し不都合な、しかし知っておく価値のある話をします。人の記憶は、録画の再生ではないという話です。そしてそれは、期末にあなたが思い出す「部下との半年間」にも、そっくりそのまま当てはまります。
この記事でわかること
- 記憶が「再生」ではなく「再構成」である、という心理学・脳科学の基本知見
- 期末にあなたが思い出す部下との半年間が、なぜ「自分に都合よく」編集されてしまうのか
- 部下と記憶が食い違ったとき、評価者が取るべきたった一つの道と、1on1メモの本当の役割
- 「事実で語れる評価者」であることと、自己基盤の意外なつながり
記憶は「録画の再生」ではない
私たちは日常的に、記憶を録画のように扱っています。「思い出す」とは、頭の中のアーカイブから当時の映像を再生することだ、と。
しかし記憶研究の世界では、この見方はおよそ百年前に否定されています。心理学者のフレデリック・バートレットは1930年代に、人が物語を思い出すとき、細部を落とし、順序を入れ替え、自分の知っている枠組みに合うように作り替えて想起することを実験で示しました(Bartlett, 1932)。以来、記憶研究の基本的な理解はこうです。
記憶とは「再生」ではなく「再構成」である。思い出すたびに、断片から組み立て直されている。
脳の仕組みから見ても、これは頷ける話です。脳は出来事を一本の映像として保存しているわけではありません。「誰と」「どこで」「いつ」「何を感じたか」といった要素を、海馬という部位が結びつける形で記憶を作ります。そして思い出すとき、その結びつきは一度ほどけ、組み立て直され、再び固定されます(記憶の再固定化、reconsolidationと呼ばれます)。
ここに、記憶の厄介な性質があります。「思い出す」という行為そのものが、記憶を書き換える機会になるのです。思い出すたびに、そのときの文脈や感情や思い込みが、少しずつ記憶に混ざり込む。大切な思い出ほど何度も想起されるので、大切な思い出ほど、実は書き換えの機会にさらされ続けている。そういう構造になっているのです。
先輩の頭の中で、何が起きていたのか
この見方に立つと、先輩の「記憶」がどう作られたのか、かなり具体的に説明がつきます。
まず、部品はすべて本物です。O君という後輩は実在する。山本という剣道部の後輩も実在する。学生や訪問にまつわる接点も、何かしらあったのでしょう。個々の要素の記憶は、正しいのです。
混線したのは、「誰と・いつ・どの組み合わせだったか」という接続の情報でした。記憶の部品は正しいのに、部品同士のつなぎ方を取り違える。心理学ではこれをソースモニタリング・エラー(記憶の出所の混同)と呼びますが、名前より大事なのは、これが誰の脳でも普通に起きる現象だということです。
さらに、二十三年という時間が効いています。時間が経つと、記憶は「一言一句の細部」から先に消え、「だいたいの要旨」だけが残ることが知られています。先輩の中に残っていたのは、おそらく「後輩のO君と、剣道部つながりの山本。二人とも自分の会社に縁があった」という関係の構図だけ。そして脳は、構図だけが残った記憶を語るとき、構図に合うように空白を埋めます。「後輩二人と自分」という構図から、「二人が一緒にOB訪問に来てくれた」という、もっともらしい一つの物語が組み上がる。こうして、一度も起きていない出来事が、記憶として誕生します。
そして、ここが一番大事なところです。偽りの記憶研究で知られる心理学者エリザベス・ロフタスが繰り返し示してきたのは、こうして作られた記憶は、本人にとって鮮明で、確信度が高いという事実です(Loftus, 2005)。作られた記憶は、薄ぼんやりしていない。本物の記憶と同じ手触りで、堂々とそこにあるのです。
先輩の「よく覚えてるよ」という言葉。あの確信こそが、再構成された記憶の何よりの特徴だった、ということになります。
では、私の記憶は正しいのか
ここまで読んで、「なるほど、先輩の記憶が書き換わっていたのか」と思われたかもしれません。私も最初はそう考えました。
しかし、少し立ち止まる必要があります。
再構成、出所の混同、構図による補完、確信度の高さ。ここまで先輩の記憶に当てはめてきた仕組みのどれ一つとして、「先輩の脳だけに起きる」ものはありません。全部、私の脳でも起きます。「O君が先輩を引き合わせてくれた」という私の記憶もまた、二十三年ものあいだ、想起のたびに組み立て直されてきた再構成物です。私だけが録画データを持っていて、先輩だけが持っていない、という都合のいい話はないのです。
私の記憶のほうが鮮明だから? 鮮明さが正確さの指標にならないことは、いま確認した通りです。私のほうが確信があるから? 確信度も同じです。記憶の内側にある手がかりは、どれも当てになりません。
では、二つの記憶が食い違ったとき、確からしさに差をつけるものは何か。記憶の外にある証拠だけです。
- 当時のメールや手帳などの外部記録
- 第三者(この場合はO君)の記憶
- 動かしようのない客観的な順序(大学卒業 → 大学院進学 → O君の入社 → 紹介、という時系列)
私のケースでは、この三つ目がありました。O君がその会社に入社したのは、私が学生でなくなったあとです。だから「学生時代にO君と訪問した」は時系列として成立しない。記憶の勝負ではなく、記憶の外の事実によって、ようやく確からしさに差がつく。
記憶と記憶がぶつかったとき、記憶の中で決着をつける方法は存在しない。仲裁できるのは、記憶の外にある事実だけである。
この一文を、この記事の折り返し地点として置いておきます。後半では、これが評価者の仕事にどう関わるかを見ていきます。
記憶は「自分に都合よく」書き換わる
その前に、もう一つだけ、記憶の性質を確認させてください。ここまでの話なら「記憶はランダムに劣化する」という理解でも済みます。しかし実際の研究が示すのは、もっと不都合な事実です。
記憶の再構成は、中立ではありません。「自分という人間の物語」を守る方向に、系統的に歪みます。
管理職の日常に翻訳すると、たとえばこうなります。
1成功は自分に、失敗は環境に引き寄せられる
部下の案件がうまくいったとき、「あのとき自分が方向修正させたからだ」と思い出す。うまくいかなかったとき、「あれだけ言ったのに、部下が動かなかった」と思い出す(自己奉仕的な帰属)。
2「最初からそう思っていた」が生まれる
失敗に終わった施策について、「実は最初から筋が悪いと思っていた」という記憶が生まれる。期初の自分は賛成していたのに、である(後知恵バイアス)。
3自分が選んだものは、良く見える
自分が推して採用した人、自分が選んだ方針は、実際よりも少し良いものだったと記憶される(選択支持バイアス)。
4自分がつけた傷の記憶は、早く薄れる
会議で部下に強く当たってしまった記憶は、当てられた側の記憶よりも速く薄れていく。ネガティブな感情の記憶は、ポジティブな感情の記憶より速く色あせることが知られている(fading affect bias)。
念を押したいのは、これらはすべて、悪意も自覚もないまま起きるということです。「記憶をねじ曲げてやろう」と思っている人はいません。想起のたびに、自己像に合う方向へほんの少しだけ修正される。その微修正が何十回と積み重なった結果、元の出来事からかなり離れた「都合のよい物語」が、本人の中では完全な事実として定着する。先輩の温かい記憶違いと同じ仕組みで、もう少し自己防衛的な記憶違いが、私たちの中にも積み重なっていきます。
期末のあなたが思い出す半年間は、すでに編集済みである
さて、評価の話です。
期末面談を前に、あなたは部下との半年間を思い出そうとします。あの案件、あの会議、あの指示、あのすれ違い。このとき頭の中に立ち上がってくる「半年間」は、録画の再生ではありません。何十回もの想起と再固定化を経て、「自分の指導は適切だった」「自分の判断は正しかった」という方向にすでに編集された、再構成物です。
具体的な例を挙げましょう。期初にあなたが出した指示が、実は曖昧だったとします。部下は曖昧なまま動き、案件はうまくいかなかった。この出来事は、半年後のあなたの記憶の中で、どうなっているでしょうか。自己奉仕的な再構成を経て、「自分はちゃんと伝えた。部下が動かなかった」という物語に変わっている可能性が、決して低くないのです。しかもその記憶は、鮮明で、確信に満ちている。あなたは嘘をつくつもりなど微塵もなく、心から「伝えたはずだ」と思いながら、部下を低く評価することになります。
一方の部下の記憶も、同じ仕組みで、部下自身に都合よく再構成されています。「自分は指示通りにやった。指示が曖昧だったのだ」と。
ここで多くの面談が、不毛な戦いに入ります。「言った」「聞いていません」。どちらも本気で、どちらも自分の記憶に確信を持っている。そして、ここまで読んでくださったあなたには、もうお分かりのはずです。この戦いに勝者はいません。双方とも再構成物を握りしめて争っているのですから、記憶の中で決着をつける方法が、そもそも存在しないのです。
だとすれば、評価者が取るべき道は一つしかありません。問いを切り替えることです。
「どちらの記憶が正しいか」ではなく、「記録を一緒に確認しよう」へ。
期初の目標合意のメモ、期中の1on1の記録、案件のやり取りの履歴。記憶の外にある事実だけが、二つの記憶を仲裁できます。
この観点に立つと、1on1のメモや期中の記録の意味が、少し変わって見えてきませんか。行動評価の罠への対策として「期中に行動を記録しておくこと」は、評価者育成の定番のアドバイスです。直近の印象に引きずられないための工夫、という位置づけで語られることが多い。しかし本当のところ、記録の役割はもっと深いのだと思います。
1on1のメモは、評価の証拠品ではありません。未来のあなたと部下、二人の記憶がすれ違ったときの、仲裁人です。
記録を取るのは、部下を監視するためでも、査定の材料を積み上げるためでもない。半年後には二人とも別々の物語を持ってしまうと分かっているからこそ、物語になる前の事実を、二人のために残しておく。これが、評価の公正性の生命線だと私たちは考えています。
なぜ、そこまでして書き換えるのか
ここで、一段深い問いを立ててみたいのです。
なぜ脳は、そこまでして記憶を書き換えるのでしょうか。正確に保存しておいたほうが、生きるうえで役に立ちそうなものです。
記憶研究が示唆する答えは、こうです。記憶の第一の機能は、過去を正確に保存することではない。「一貫した自分」を保ち、明日も動ける自分を支えることである。
心理学者フェスティンガーの認知的不協和の理論(Festinger, 1957)を借りれば、「自分は公正で有能な人間だ」という自己概念と、「自分の指示が曖昧で部下を失敗させた」という記憶は、心の中で衝突を起こします。この不快な衝突を解消するために、脳は記憶のほうを、想起のたびに少しずつ自己概念に寄せていく。記憶が歪むのは欠陥ではなく、自己を守るための仕様だ、ということです。
そうだとすると、一つの推論が成り立ちます。ここから先は研究として確立した話ではなく、管理職研修の現場に立つ私たちの仮説として読んでください。
守らなければならない自己が大きい人ほど、記憶を歪める必要も大きくなるのではないか。
私たちは管理職研修の中で、承認欲求を二つに分けてお伝えしています。他者からの評価によって自分を保つ「他己承認」と、自ら掲げたものに向かう実感によって自分を認める「自己承認」です。自己肯定感が他者からの評価に依存している人にとって、「自分に落ち度があった」という記憶は、自己の土台を直接揺るがす脅威です。脅威である以上、脳は仕様通りに働き、本人の気づかないところで、その記憶を書き換えていきます。恐れが、記憶の編集者になるのです。脳科学の言葉では、脅威への警報を扁桃体が、状況の冷静な捉え直しを前頭前野が担うとされますが、その厳密な対応づけをここで主張するつもりはありません。実務の現場で私たちが繰り返し見てきた光景を、そのまま述べます。
恐れに駆動されている評価者は、部下と記憶が食い違ったとき、闘うのです。自分の記憶が間違っているかもしれないという可能性は、自己への攻撃に等しいからです。「言った」「聞いていません」の戦いが引くに引けなくなるのは、記憶の争いが、いつの間にか自己の存亡を懸けた争いにすり替わっているからです。
一方で、自己基盤に支えられている評価者は違います。自分で自分を承認できる人は、「自分にも落ち度があった」という記憶を、持ちこたえることができます。落ち度を認めても、自己の土台は揺らがないからです。だから記憶を書き換える必要が、そもそも小さい。部下と認識がずれたときも、「私の記憶も間違っているかもしれない。記録を確認しよう」と、自然に言えます。
つまり、こういうことになります。
記憶の歪みの少なさは、誠実さの問題である以前に、自己基盤の強さの現れなのかもしれない。
「事実で語れる評価者になりましょう」と、評価者研修は言います。私たちも言います。しかしそれは、メモ術や記録のテクニックの話である前に、落ち度の記憶を持ちこたえられる自分であるかどうかという、在り方の話なのです。私たちが「スキルというアプリの前に、自己基盤というOSを」と言い続けているのは、こういう場面が念頭にあります。OSが恐れで動いている限り、どれほど立派な評価スキルをインストールしても、記憶の編集はその手前で終わっているのですから。
それでも、記憶は羅針盤になる
ここで、一つの疑問が浮かぶかもしれません。評価者育成の文脈では、「あなたが被評価者として受けてきた面談の記憶が、評価者としての羅針盤になる」とよく言われます。私たちもそうお伝えしています。ところが本記事はここまで、「記憶は再構成物であり、当てにならない」と論じてきました。矛盾しているではないか、と。
もっともな指摘です。そして、この二つは両立します。
先ほど触れた通り、記憶は「一言一句の細部」から先に消え、「要旨」が残ります。二十年前の面談で上司が何と言ったか、正確な台詞をあなたはもう覚えていません。その記憶は再構成されており、細部は当てになりません。しかし、「あの面談のあと、前を向く気持ちになれた」「あの面談のあと、どこか冷めてしまった」という感情の要旨は、細部が消えたあとも、残り続けます。
信用してよいのは、面談の詳細の記憶ではなく、納得感の記憶です。誰が何を言ったかは書き換わっても、「ちゃんと見てくれている人に評価されたとき、人は前を向ける」という要旨は、あなたの中に本物として残っている。羅針盤と呼ぶべきなのは、この部分です。細部を証言する証人としての記憶は頼りになりませんが、「評価とは何であるべきか」を指し示す羅針盤としての記憶は、細部が消えているからこそ、むしろ純度が高いのです。
記録と、恐れないこと
長い記事になりました。処方箋を二つに絞って、締めくくります。
一つ目は、行動のレベル。期中に、記録を残すことです。
期末のあなたの記憶は、あなたに都合よく編集されています。これは意志や誠実さでは防げません。仕様だからです。防げないものは、仕組みで補うしかない。期初の合意を書き残す。1on1で観察した事実を一行ずつ書き残す。それは部下のためであると同時に、自分の記憶を過信しないと決めた評価者が、自分自身を救うための仕組みです。
二つ目は、マインドのレベル。記憶が揺らぐことを、恐れないことです。
あなたの記憶は書き換わります。部下の記憶も書き換わります。それは誰の落ち度でもありません。だから、部下と認識がずれたときに「私の記憶も間違っているかもしれない」と口にすることは、評価者としての敗北ではないのです。むしろ、記憶の争いを降りて事実の確認へ進めるその一言は、自己基盤の上に立つ評価者にしか言えない、強さの表現です。
最後に、冒頭の先輩との話には、続きがあります。
私はあの場で、記憶の訂正をしました。ただし、「それは違いますよ」と否定したのではありません。
「先輩、実は順番が逆なんです。私が大学院に行っていた間にO君が先に入社していて、そのO君が先輩を紹介してくれたんですよ」
大学院への進学、O君の入社、そして紹介という動かしようのない順序を、一緒にたどり直しただけです。先輩は少し驚いて、それから笑いました。
それで何かが壊れたかといえば、何も壊れませんでした。「学生時代にOB訪問してくれた」という細部は訂正されても、二十三年間、後輩との接点を温かい記憶として持ち続けてくれていたという一番大切な要旨は、少しも損なわれなかったからです。
記憶のズレは、正しさを争えば関係を傷つけ、事実を一緒にたどれば、関係を深めます。
評価者としてのあなたに必要なのは、完璧な記憶ではありません。「私の記憶も間違っているかもしれない」と言える自己基盤と、記憶の外に事実を残しておく習慣。この二つがあれば、記憶の揺らぎは、もう恐れるものではなくなります。
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参考文献
- Bartlett, F. C. (1932). Remembering: A Study in Experimental and Social Psychology. Cambridge University Press.
- Johnson, M. K., Hashtroudi, S., & Lindsay, D. S. (1993). Source monitoring. Psychological Bulletin, 114(1).
- Nader, K., Schafe, G. E., & Le Doux, J. E. (2000). Fear memories require protein synthesis in the amygdala for reconsolidation after retrieval. Nature, 406.
- Loftus, E. F. (2005). Planting misinformation in the human mind: A 30-year investigation of the malleability of memory. Learning & Memory, 12(4).
- Brainerd, C. J., & Reyna, V. F. (2005). The Science of False Memory. Oxford University Press.
- Walker, W. R., Skowronski, J. J., & Thompson, C. P. (2003). Life is pleasant—and memory helps to keep it that way! Review of General Psychology, 7(2).
- Festinger, L. (1957). A Theory of Cognitive Dissonance. Stanford University Press.
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